ローカルな書店。
東京都町田市鶴川駅前の書店に立ち寄る機会がありました。
決して大型店舗ではありませんが、品揃えに好感を抱きました。
なんとなく「本が好きで、読書の良さを伝えようと頑張っている人(達)が切り盛りしているのかな?」と感じさせる店づくり。
地域ならではの特集もいいですよね。
あと、中高生が色々と思い感じるようになって、「なんとなく今日は真っ直ぐ家に帰りたくないな」という日に立ち寄った時に、そっと手を差し伸べてくれるような陳列になっているとも思いました。
17歳だった頃の自分が立ち寄ったら、長居をしてしまいそうです。
(35歳で訪れた今日も、気づいたら滞在は1時間を超えていましたが。)
「これからも儲かるか?は別として、『本』や『書店』の存在は、きっとこれからも、少なからず人の役に立っていくのだろう。」そんな希望を抱かせて貰える機会でした。
マドンナの語源。
夏目漱石の『坊ちゃん』について綴った文章に目を通す機会がありました。
それによると、「マドンナ」の語源は、同作の登場人物だそうです。
加えて、「マドンナ」という言葉のルーツには、聖母マリアの存在があるようです。
こうした発見は嬉しいですね。
ところで、夏目漱石という作家は自身を幾人かの登場人物に投影させた上で、「近代的インテリ」としての側面に厳しい目を注いでいたように見えます。
これは、2年ほど前に『こころ』を読み返した時にも感じたことです。
(『坊ちゃん』では赤シャツ、『こころ』では先生を想定した話です。)
文学については、相当に深掘りしないと「趣味」の世界で終わってしまいそうですが、先々何かの分野を専門的に学ぶことがあれば、取り組んでみたいテーマの一つです。
日本銀行券。
先月くらいから、出来るだけ真新しいお札を使うことを、試みの一つにしています。
消費増税に向けた政府の取り組みもあって、時代は完全にキャッシュレスですが、常に逆を行く日々です。
さて、新しいお札については、午後三時までに銀行へ行くと、両替機などで手に入ります。
ギリギリの時間帯だと、その日の取り扱い分が終わっていることも多く、「お札にも在庫があったのか!」という当たり前のことに気づかされるから不思議です。
不思議と言えば、こうした試みを始めて以来、ATMでお金を引き出した際など、ふとした時に新札が手元にやってくることが、以前に比べて増えた気がしています。
数年前に流行った「引き寄せの法則」でしょうか。そもそも前より意識的になっているだけでは?と自問するに気持ちは残るのですが、興味深く観察しています。
読書のリハビリ。
しばらく読書から遠ざかっていたのですが、少しずつ再開する時期に来たようです。
それで、リハビリとして手に取ったのが、村上龍の『コインロッカーベイビーズ』。二子玉川の蔦屋家電で、2日間、計2時間ほど費やした結果の選択でした。
これまで、後継作に当たる『愛と幻想のファシズム』を読み返すことの方が多かったのですが、自分の状況が落ち着いてくるにつれ、より「原始的な」作品に当たる余裕ができるのかもしれません。不思議ですね。
さて、肝心のコインロッカー〜、昨日1日で約550ページのうち、350ページほどまで読み進めました。冒頭100ページくらいは力技で消化した感じでしたが、だんだんとページを捲る手が捗るようになりました。
描写についての比喩は、果たして上手いのか分かりません。「○○のような●●」と言われた時に、そのどちらにも馴染みがないと、映像化しようがないので。ただ、一瞬の風景や状況からこれだけの情報量を受け取っていながら、現実世界と折り合いを付けたことに改めて驚かされました。
残り200ページを放ったらかしにせず、最後まで読みきりたいものです。
悪と闇。
昨晩、ふとしたことから、村上春樹の小説を思い出しました。特に、『羊をめぐる冒険』辺りから一貫して書き続けている、善悪について。
「絶対的な悪」の存在を前提として、脆く儚い存在である個人はそうしたものに対抗し得るのか?
もし理解が間違っていなければ、村上春樹という人は、その可能性を提示することについて、孤高の戦いを続けている人に映ります。
一方で、人間は誰しもが自分の中に「闇」を抱えているものです。それは、漠然とした恐怖心であったり、愛に対する飢えであったり。根深い場合には、その行き着く先には死が待っている場合もあり得ます。
難しいのは、そうした「闇」について、当事者が後ろめたさや罪悪感を抱いた瞬間、そこに「悪」が忍び寄る余地が生み出される、ということです。
「闇落ち」という言葉は、なかなか言い得て妙なのかもしれません。
すみません、今回は少し(だいぶ?)感じたままを綴る日記になってしまいました。このテーマについては、これからも取り上げる気がしていますので、その時にはもう少し噛み砕いて書きたいと思います。
犯罪発生率と近未来の風景。
このところ、某県の特定エリアで発生する様々な事件が、立て続けにニュースを賑わしていますね。
統計資料を確認したわけではないのですが、「傾向」はあるように感じます。
それでふと、アメリカで不動産投資をしている方の話を思い出しました。現地で投資対象を選ぶ際、数字の見通しなどに加えて、「治安」が重要な判断材料になるのだそうです。
この感覚、今の日本ではあまり実感がないかもしれません。ですが、今の子ども達が大人になる頃には、割と無視できない指標になっているのではないか?一連の報道を目の当たりにして、そんなことを考えています。
その善し悪しはひとまず脇に置くとして、日本はこれから少なくとも数十年に渡って、いわゆる「格差社会」の方向に突き進むことが予想されます。そうなった時、相対的に貧しいエリアは、目に見えるレベルで犯罪発生率が上昇する可能性を孕んでいると思われます。
とここまで書いてきて、村上龍が『愛と幻想のファシズム』で描いた、スラム街にそびえ立つ豪勢なビル(「セレブリティビル」という分かりやすい名前でした)のイメージを思い出しました。場所は晴海だったので、その点では現実と異なっているかもしれません。しかし、今から数十年後、「ベッドタウン」と呼ばれる地域がどんな光景になっているのか、かなり気がかりです。
オランダ。
サッカーの代表戦を観るのに合わせて、「ついで勉強」で対戦相手のことを知る取り組みを始めています。
昨日(今日)はオランダのことを少し。
まず基本的な情報に当たってみると、国土の面積は日本の九州くらい、人口は約2,000万人とのこと。
きっと一度は勉強してるはずのことですが、キレイさっぱり忘れていたので、このレベルでも新たな学びです。
あと驚かされたのが宗教面で、人口に占めるカトリックの比率が約25%というのは意外でした。「大麻フリーな国」というイメージが先行してるので、戒律とは無縁な国かと思っていました。
ちなみに、江戸時代に徳川家康がオランダを重用した背景には、当時の彼らがプロテスタント系だったことがあるらしいので、この辺りの経緯や事情は、もう少し確認してみたいところ。
また、試合を観ていても痛感させられるのが、オランダ人の背の高さ。この理由については諸説あるようですが、「これ」と言い切れる確度ではなさそうなので、今回は割愛しますね。
さて、肝心の試合結果は日本にとって残念なものになりましたが、少し身近に感じられるようになりましたし、勝ち上がったオランダの躍進を応援したいと思います。